よくあるご質問・Q&A形式で分かりやすくまとめました。

◆宗派について

Q.天台宗とは
A. 天台宗は中国の南北朝時代の僧・智顗(ちぎ)(538~597)が法華経を中心として確立した教えです。智顗が唱えた法華三昧、三諦三観、一念三千、五時八教などの思想は中国の仏教思想を形成する上で大きな影響を与えたとされています。

日本における天台宗の成立は、伝教大使最澄(767~822)が805年に中国に渡り 天台数学(円)、密教、禅、律を伝授され翌年(806年)帰国しその教えを伝えたのがはじまりです。最澄は帰国後、比叡山延暦寺を開き、後年多くの優れた僧侶を輩出しました。天台宗は法華経を中心として朝題目・夕念仏という一般向けの行法を広めたり、密教をとりいれるなど様々な仏教の教えが包括され ている総合仏教といえます。延暦寺は長く日本の仏教教育の中心の1つであったため、平安時代末期から鎌倉時代にかけて法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)などの学僧を輩出し、彼らは現在も宗派を開いています。

最澄が果たした役割でもっとも大きなものは、大乗仏教をもたらし、戒壇を作ったことです。戒壇とは戒律(仏教において守らなければならない、道徳規範や 規則の事)を授ける場所で、僧になるための証明を得る場所でもあります。それまでの奈良時代あった戒律では不十分と考えた最澄は、大乗戒律制定のため奔走しました。そのことが現在の大乗仏教としての日本仏教の基盤を作ることとなりました。

様々な日本文化は元来、仏教を根本として生まれ発展してきました。天台宗は日本仏教の根本を作り出したことから「日本文化の母」とも呼ばれています。
Q.真言宗とは
A. 真言宗は弘法大師空海(774~835)によって9世紀の初頭に開かれた仏教です。開祖である空海は中国の唐に留学し、密教の系統を継ぐ恵果を師として密教を学びました。また空海は唐に渡るやいなや漢詩の才能も発揮し、周囲を驚かせたということです。日本に戻った空海は816年に高野山剛峯寺を修禅の道場として開創し、823年に勅賜された教王護国寺(東寺)を真言宗の根本道場として宗団を確立しました。

真言宗は真言密教とも言い「即身成仏」と「密厳国土」を教儀とする教えです。
ご本尊は宇宙の本体であり、絶対の真理であるとされる大日如来です。「即身成仏」とは生きた身のまま仏になることで、「心理を見つめる目があれば全てのものが宝となり、それが仏の身になることに他ならない」という意味を持ちます。つまり、人は密教の教えの実践によりただちに仏になることができるという教えです。

同時期に最澄によって開かれた天台宗が法華経学、密教、戒律、禅を兼修するのに対し、真言宗は密教に重要性を置いた宗派であると言えます。
Q.浄土宗とは
A. 浄土宗は法然上人(1133~1212)を開祖とし、中国の浄土教を旨する教えです。法然は美作国(現在の岡山県)の武家に生まれました。法然が9歳のとき、父が死んでしまい、彼はその遺言に従って仏門へ入ります。4年の修行の後13歳で比叡山に移った法然はその後も勉強を重ね、43歳のときに中国の善導 が残した中国浄土教の教えをもとに専修念仏に進みます。その後比叡山を降りた法然は東山吉水に住み、念仏の教えを広めました。この年が浄土宗の立教開宗の年であるともされています。
法然の教えは民衆を中心に下級武士や貴族にも影響を与えましたが、従来の諸宗からは仏教の伝統的な立場を否定するものとして弾圧にあうことになります。やがて法然は讃岐に流罪にされましたが、その地でも布教に勤めたということです。

浄土宗の教えの基本は「西方極楽浄土へ往生すること」にあります。極楽浄土とは、浄土宗の本尊である阿弥陀如来が西方十万億仏土のかなたにつくられた浄らかなところで、人はこの世での生を終えるとそこへ行って生まれ、阿弥陀如来の説法を開いて仏になることができるとされています。法然は極楽浄土に往生するには阿弥陀如来を信じ、念仏を唱えることが重要だと人々に説いたのです。
Q.浄土真宗とは
A. 浄土真宗の開祖は見真大師親鸞(しんらん)(1173~1262)です。親鸞は9歳で比叡山に登り、修行に励みます。29歳で比叡山を降りた親鸞は京都の六角堂に参籠中、聖徳太子の夢のお告げを聞き浄土宗の開祖である法然に弟子入りしました。

法然の念仏教団が弾圧されるようになると、法然は讃岐に、親鸞は越後に流罪とされます。越後に流された親鸞はその地の娘と結婚し子供を設けます。当時の仏教会では、僧侶は妻帯を禁じられていましたが、師の法然は弟子に対して念仏を唱えるうえで妨げにならない限り、妻帯することを許していたのです。今でこそ僧侶の妻帯は一般になっていますが、明治時代までは妻帯の許される宗派は浄土真宗のみでした。それはこの話が由来となっています。
5年後、親鸞は流罪を許されましたが、都へは帰らずに関東方面で布教活動を続けました。その中で「教行信証」を著します。浄土真宗ではこれを本典とし、この年を立教開宗の年としています。

親鸞の教えは法然の教えをさらに進めた考えであり、法然が念仏を唱えれば 極楽浄土への道が開けると説いたのに対し、親鸞は阿弥陀如来を信じる心を持った時点で極楽浄土への道が約束されると説いたのです。阿弥陀如来は一切の衆生済度を本願としているのだから、世俗の善悪は関係ない、というのが親鸞の考え方です。また、たたりや霊、日や方角といった迷信は人間を真実に生かす道ではないとして、これを排除したことも特徴の一つです。

親鸞の死後、現在の東西本願寺に見られる巨大本願寺教団の基盤を作ったのは本願寺8世の蓮如(1415~1499)です。蓮如は親鸞の教えをわかりやすく短い言葉に言葉にまとめて説いた「御文書」(「御文」とも言う)などを著し、広く民衆に伝え本願寺は爆発的に発展しました。
第11代の顕如の後、教団内部の対立状況が主因となり東・西両本願寺に分 立し現在に至っています。東本願寺を総本山とするのが真宗大谷派、西本願寺を総本山とするのが浄土真宗本願寺派です。

  浄土真宗の本山には、そのいずれにおいても基本的に本尊阿弥陀如来を安 置する本堂(阿弥陀堂)とは別に、親鸞の真影を安置する御影堂があります。各派ともに、親鸞の求道・弘教の恩徳と、それを通じて信知せしめられた阿弥陀如来の恩徳とに報謝し、その教えを聞信する法会である報恩講を年間最大の行事としています。
Q.曹洞宗とは
A. 曹洞宗は禅宗五家の一つであり、日本においては臨済宗、黄檗宗とともに座禅を中心とした宗派です。曹洞宗の名前は唐の時代の禅僧である山良价(とうざんりょうかい)(807~869)と、その弟子である曹山本寂(そうざんほんじゃく)(840~901)の名前から由来しています。

日本における曹洞宗の開祖と言われているのは承陽大師道元(1200~1253)です。道元は鎌倉時代に宋に渡り、中国曹洞宗の長翁如浄に師事し曹洞禅を 学びました。その後帰国した道元は越前に永平寺を建て、自らの理想とする正伝の仏法の提唱と弟子の養成につとめました。
曹洞宗が広く普及したのは第4代の常済大師瑩山(1266~1325)です。彼が能登に立てた総持寺は明治31年の火事により消失したため、その後、横浜市鶴見区に移転し、永平寺とともに曹洞宗の大本山として今日に至っています。この二人はそれぞれ高祖、太祖とも呼びます。

曹洞宗はお釈迦様を本尊とし、その教えは正伝の仏法を伝統として、即身是物(座禅の心とすがたで、日常生活を生きてゆく)の心を持って主に座禅によって働きかけていくというものです。曹洞宗の座禅は道元の教えに従い、只管打坐(しかんたざ)(ただひたすらに座禅を行う)を基盤としています。
Q.臨済宗とは
A. 臨済宗は曹洞宗と同じく、中国禅家五宗(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の一つで、座禅を中心とした宗派です。開祖は唐の臨済義玄(?~866)とされます。

日本に臨済宗を伝えたのは栄西(1141~1215)で、彼が28歳の時に中国の宋へ渡り修行をしています。帰国後鎌倉幕府の支持を受け、1202年、建仁寺を建立しました。また、「喫茶養生記」なる書を著し、その書には茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用などが記されています。

臨済宗は禅を中心とした教えですが、同じく禅を中心とする曹洞宗の禅が黙唱禅と呼ばれるのに対し、臨済宗の禅は看話禅(かんなぜん)と呼ばれます。師匠が問題を出し(公案)弟子が座禅をしながらその問題に取り組むというものです。公案は悟りを開くために与えられる問題で、その答えを得るために知識や教養は意味を持ちません。 公案は悟りを得るためのヒントの一つであり、知的な理解を超えた話を理解することで悟りを得られると言われています。
Q.日蓮宗とは
A. 日蓮宗は鎌倉時代中期に日蓮(1222~1288)によって開かれた宗派です。日蓮は現在の千葉県の小湊で生まれ、12歳の時に清澄寺に入り修行し、16歳で出家します。その後比叡山にて仏教を学び、妙法蓮華教(法華経)こそが釈迦の教えの真髄が示されているという結論に至ります。1253年、清澄寺に帰山した日蓮は日の出に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えて立教開宗を宣言しました。

鎌倉にて布教活動を行う日蓮は法華絶対主義の姿勢をとり、他宗を不成仏の法と非難しました。さらに当時の幕府に対しても自らの教えに帰依しないと日本は滅びると強く訴えました。このため日蓮は多くの弾圧にあい、伊豆や佐渡に流罪になる、龍口寺にて斬首にあいかけるなど様々な苦難にあいました。53歳の時に許された日蓮は鎌倉に戻りました。その後身延山にて弟子の育成にあたり、1282年、武蔵国にてその生涯を閉じたのです。

日蓮宗の教えの中心は、法華経こそが世界を救う絶対の教えであり、お釈迦 様の教えの真髄であるというものです。日蓮はいかなる凡夫にも仏性が秘められており、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と題目を唱える「唱 題」の行を行えば「仏性」が顕現するという思想を説きました。
本尊は日蓮上人が自ら記した大曼荼羅であり、「南無妙法蓮華経」をお唱えして帰依する一切の存在が書き表されています。 

◆お仏壇について

Q.仏壇の意味とは
A. 私達の暮らしの中にあるお仏壇、それが持つ意味とは何なのでしょうか。近年核家族化が進み、自宅に仏壇がないお宅も増えてきました。また、安置している家庭でも仏壇に対する意識が昔とは違ってきているようです。用のない時は仏壇には近づかず、お盆やお彼岸などの仏事の行事がある時にだけ仏壇との係わりを意識するぐらいです。
昔は、仏壇は家族にとって非常に身近にいる存在でした。朝食を食べる前やいただきものをした時などは仏壇に供え、毎日家族全員で手を合わせていました。今日も家族が元気に過ごせますようにとご先祖様にお祈りし、敬っていました。ご先祖様はいつも私達を見守っていてくれるという意識が現代よりもずっと強かったのです。

仏壇を家庭に置きお参りするという行為は、ご本尊を安置し仏様にお参りするのが本来の意味なのです。仏壇は仏教の信仰を深めるためのものです。
しかしご先祖様を敬い、お祀りし、位牌を安置するのもまた重要な意味があります。お仏壇を通してご先祖様への感謝の気持ちを育み、生きていくこともとても大切なことなのです。個人を偲び、冥福を祈り、供養をする気持ちは日本人として自然な行為であり、他人へのいたわりと優しさの表れでもあります。普段宗教を意識しない人でも、仏壇の前ではこうした気持ちがわきおこります。個人をいつまでも忘れず敬う気持ちは、仏壇が日常にあるからではないでしょうか。仏壇とは私達に他人を慈しむ心を教えてくれるものでもあるのです。

お仏壇は親から子へ、子から孫へ代々受け継がれていきます。お仏壇が育んでくれる心もまた、代々受け継がれていくべきものです。そしてその心があれば家族の絆も一層深まることでしょう。
お仏壇とは信仰を深めるという意味と同時に、私達の日常の暮らしの中でも重要な意味を持つものなのです。
Q.お仏壇の起源
A. 仏壇の起源には、持佛堂(じぶつどう)説と魂棚(たまだな)説の2種類があります。

持佛堂説は、もともと仏壇は寺院の小型化したものと見る説です。江戸時代以前、遺族などの上流階級においては自ら建立した持佛堂を持つ者もいました。藤原頼通の平等院鳳凰堂や、足利義満の鹿苑寺なども持佛堂です。上記のような持佛堂が小型化し、屋内に取り込まれることによって仏間を経て仏壇に変化したと言われています。現在流通している高級仏壇はこうした寺院ほどの豪華さを持つものも多く、特に浄土真宗用の仏壇、仏具の荘厳さは寺院の様式を反映したものとなっています。

魂棚説は民俗学者の柳田國男が提唱した説で、仏壇の起源とはお盆のときに飾る盆棚であるとしたものです。盆に様々な精霊を迎える風習は江戸時代以前からあり、先祖が帰ってくるという信仰は古くからあったと言います。その時に使用していた盆棚が江戸時代初期の檀家制度の導入によって次第に仏教化し、常設されるようになったものが仏壇だというわけです。

持佛堂説は仏教的な側面が強く、魂棚説は先祖供養の側面が強いと感じられます。仏壇にこうした複数の起源があるのは日本の宗教背景が多面的であることの反映とも捉えられ、豊かな宗教土壌の表れであると言えるでしょう。
Q.お仏壇の歴史
A. 日本最古の仏壇は法隆寺の玉虫厨子と言われています。西暦685年3月27日時の聖武天皇が「詔したまわく、諸国に、家毎に、仏舎を造りて、すなわち仏像及び経を置きて、礼拝供養せよ」との詔を出しました。玉虫厨子はこの頃に作られたものです。それにちなみ全日本宗教用具協同組合は毎月27日を仏壇の日と定めています。ただし、この詔は現代主流である仏壇の直接の起源ではないようです。

仏壇が現在のように各家庭に普及した背景には何があったのでしょうか。仏壇が生まれたのは信仰という面からですが、現在のように各家庭に普及したのは信仰だけでなく、政治的な一面もあるのです。

仏教が初めて表に出てきた飛鳥時代、仏教は貴族達などの一部の特権階級だけのものであり、一般庶民には関わり合いのないものでした。貴族達は自分達で持佛堂を建立し、祀っていました。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけては現代普及している様々な宗派が現れ、民衆にも仏教の波が広がっていきます。しかし仏壇が各家庭に飾られるようになるのはもう少し後のことです。

江戸時代初期になると現在見ることが出来る仏壇は誕生し、急速に一般家庭に普及し始めました。幕府の制定した「檀家制度」というものです。檀家制度により全ての人がいずれかの寺院の檀家になることを義務付けられました。人々の所属寺院を記したものが「宗門人別帳」で当時は戸籍としても機能していました。檀家である証として各戸ごとに仏壇を設け、朝・夕礼拝し、先祖の命日には僧侶を招き供養するという習慣が確立しました。社会が安定し、庶民の暮らしが豊かになってきたことも背景に、仏壇は庶民にまで浸透したのです。
檀家制度が生み出された背景には寺院経済を安定させ、前時代まで頻発していた門徒や法華の一揆という爆発的な教団の力を殺ぐためであると言われています。
Q.いくらくらいの仏壇を求めればいいのか?
A. 仏教の考え方から言えば、一番重要なのは仏様とご先祖様を思う気持ちであって、その信仰心さえあればどんな仏壇でも問題ないのです。ただそれでは実際にお求めなさる際に迷う人も多いと思いますので、次の2項を参考にしていただくとよろしいかと思います。

1.自分はどれくらいの仏壇を必要としているか
一般に価格が高い仏壇ほど素材や装飾が良いものであり、長持ちもします。
自分がどのような姿の仏壇が欲しいのか、どれくらい長持ちさせたいのか等をよく考えて、仏壇店に並んでいる仏壇をじっくりと見てみましょう。もちろん仏壇を置く場所は予め考えておき、場所に見合った大きさの仏壇を求めることです。
また、宗派によっては決められた仏壇がありますので、わからない場合は自分の宗派をお店の人に伝えるとよいでしょう。

2.その上で、自分の経済状況に見合う仏壇を考える
仏壇購入のためにどれくらいの金額が出せるのかはもちろん人それぞれです。それを十分に踏まえて、いくらくらいまでなら無理なく出せる金額なのかをよく検討することが大事です。高価な仏壇というものは、本当に値段に見合う価値を持っています。だからと言っていかなる場合でも高価なものを求めねばならないというわけではないのです。本当に大事なのは仏様とご先祖様を思う常日頃の信仰心であり、その気持ちさえあればどんな仏壇でもかまわないのです。
Q.仏壇を購入するのに良い時期というのはあるのでしょうか?
A. 仏壇をお求めになる理由のほとんどが、家の新築、もしくは家族が亡くなった場合です。誰かが亡くなった時に仏壇を買う時は、必要に迫られてといった面が強いでしょう。故人が亡くなられた時は位牌を作りますが、その位牌をてきとうに置いておくわけにはいきません。故人を手厚く供養してあげたい、という気持ちから仏壇をお求めになる理由です。

一方、新築の場合は仏壇を新しくお求めになる事はもちろん、今ある仏壇を新しく買い替えたり、塗り直しなどの修理をするケースも多いです。仏壇に合わせて仏間を作ることも出来ますし、新しい仏壇を新しい家に安置するのは実に清清しいものです。「自分たちがあるのはご先祖様のおかげ」と自分たちが新しい住まいになるので、ご先祖様の住まいも新しいもの、きれいなものにしようと考え、仏壇を購入、修理する方も多いです。

季節的な事を言えばお盆やお彼岸など、仏事に関心事がいくときも仏壇の購入者は多いです。とくにお盆はご先祖様が家に帰ってくる時でもあるので、それに合わせて仏壇を新しくする方が多いですね。

葬儀や年忌法要の時以外に仏壇を買うと家の中に死者が出る、という方もいらっしゃいますが全くの迷信です。むしろ仏壇を買うということは仏様との繋がりができ、信仰心の現れとも言えるのでおめでたいことなのです。逆に言えば、仏壇を買っていけない時期というものはありません。仏壇は欲しいと感じたならばそれが最適の時期で、いつ買ってもいいものなのです。
Q.仏壇の安置場所について
A. 仏壇を置く場所については様々な俗説があります。仏壇と神棚を一緒の部屋に置いてはいけないとか、この方角に置いてはいけないとか、実に様々です。こういった話のほとんどは迷信と言ってしまっていいでしょう。
仏壇と神棚を一緒の部屋に置いてはいけないというのも、お寺の神社ですら同じ境内にあるところもあります。日本人はその宗教土壌から仏様も神様も両方信仰してきた民族ですので、むしろ仏様と神様が両方いることは自然なことであるとも言えます。

仏壇の向きにしても様々な説がありますが、それぞれを照し合せるとお互いに矛盾したりするので、気にしていたらきりがありません。そもそも家の構造自体が各家庭によって全く違うのですから、無理に方角にこだわって日々のお参りに支障が出るようでは元も子もありません。
ただ、仏壇と神棚を向かい合わせに置いてはいけない、という説は聞いた方がいいでしょう。仏壇にお参りするときに神棚にお尻を向けることになってしまうからです。

また、普段御家族が集まる場所に置くのも良いことです。普段からご先祖様への感謝の気持ちを保ち続けられることができ、ご先祖様を身近に感じられることでしょう。
Q.新しく仏壇を買い換えた時は今まで使っていた仏壇をどうすればよいのでしょうか?
A. 新しく仏壇を買った時は、古い仏壇から魂を抜いてもらって、新しい仏壇に入れ直す必要があります。魂が入っていない状態ではあくまでただの「商品」であり、魂が入ることによって始めてご先祖様の家となるのです。これを「開眼供養」と言い「御魂入れ」「お性根入れ」とも言います。

新しい仏壇が安置されたら、自分の檀那寺に連絡してお寺様の都合の良い日を選び来ていただきます。地域や事情によっては送迎の車を必要とする場合もありますので、連絡するときに確認しておきましょう。新しい仏壇にはお供え物や仏花も飾っておきます。お寺様に来て頂いたら、古い仏壇から新しい仏壇に魂を移していただけばよいのです。

魂を抜いた古い仏壇は、檀那寺に頼むか、購入した仏壇店に連絡して引き取ってもらうとよいでしょう。もう魂は入っていないとはいえ、今まで長い間お世話になった仏壇です。そのままゴミに出すような事はしないで、ねんごろに供養してお焚き上げしてあげましょう
Q.金仏壇と唐木仏壇
A.仏壇には大きく分けて金仏壇と唐木仏壇があります。

金仏壇は黒の塗装色と金箔や金粉の輝きが特徴の仏壇です。木目を生かした造りの唐木仏壇と対とされます。金仏壇は特に浄土真宗が好んで用いる仏壇で金をふんだんに使ったその豪華絢爛な造りはまさに小さくなった寺院と言えるでしょう。
全国各地に江戸時代からの歴史を持つ金仏壇産地があり、経済産業大臣指定の伝統的工芸品となっている産地や、都道府県知事の指定の伝統工芸品になっている産地もあります。
東北では秋田県、山形県が金仏壇の産地として有名です。
伝統的な製造体制は木地・宮殿・彫刻・塗り・呂色・箔押し・蒔絵・錺金具などの分業で行われます。

金仏壇と対をなすのが唐木仏壇です。素材の木目の美しさを生かした造りが特徴の仏壇です。
素材に使われる木は黒檀、紫檀などの唐木が有名ですが、他にも南米や東南アジア産の木を使用して作られます。日本の木では欅、桑、槐、桜などが使われています。特に屋久杉を使った仏壇は唐木仏壇の中でも最高級のものとされ、温かみのあるなんとも言えぬ味わい深さがあります。
唐木仏壇の歴史は古く、100年前までさかのぼることが出来る東京唐木仏壇、大阪唐木仏壇は伝統工芸品として指定されています。唐木仏壇の量産地としては静岡、徳島が有名です。
Q.神棚
A. 神棚は家や会社の中に設けられ、崇敬する神社の分霊や御札を祀る礼拝施設をいいます。神棚を祀るのはその家の反映と平和を祈るためです。その起源は、中世(平安時代末期以降)の伊勢神宮信仰により、神霊を歓請したのが始まりといわれますが、一般庶民に広く普及したのは江戸時代中期頃といわれています。

神棚の多くは茶の間など家族がよく集まる場所に設けられますが、座敷など接客用の場所に設けられる場合もあります。神棚を祀る方向は辰巳の方向、すなわち東向きか西向きが良いとされ、大人の目線よりも高い場所に祀ります。
場所が決まったら、天井から吊るなり、鴨居を利用するなどして棚を設け、その中央に宮形を置きます。宮形は神社の社殿をかたどったもので、その中に神札をお祀りします。その手前に神鏡(しんきょう)、榊(さかき)、燈篭(とうろう)、そして神饌(しんせん)を供えます。
神棚の前面には注連縄をかけます。注連縄は本の太い方が向かって右、細い方を左にして四垂れの紙垂を四つ下げます。
毎日のお供えは、塩、米、水をお供えします。酒は瓶子(へいし)に入れてお供えします。お祭りの時は海の幸や山の幸なども一緒にお供えします。

神棚にお参りする時は神社にお参りする時と一緒で「二礼二拍一礼」です。
Q.仏壇のお手入れ
A. ご家庭で簡単に出来る仏壇のお掃除の仕方をご紹介します。
仏壇は繊細な彫刻がほどこされ、金箔や金粉を使って仕上げられています。無闇にいじってしまうと、かえって仏壇を傷める場合もあります。しかしお手入れが難しいわけではありません。簡単に掃除していただくだけで、きれいに長持ちさせることができるのです。

【金箔部分の掃除】
金箔は手で触ると指紋が着いてしまうので慎重に扱います。仏壇店で専用の毛バタキがありますので、それで軽く表面のほこりを落とします。汚れが酷いからといって、布で強くこすると金箔がはがれてしまうのでご注意ください。

【彫刻部分の掃除】
大きい部分は専用の毛バタキでほこりを落としてもらえば十分です。細かな彫刻部分は毛バタキで無理に掃除しようとすると、毛バタキが引っ掛かって細工を壊すことがあります。そんな時は書道用の毛筆で細かい部分のほこりを落とすようにしましょう。

【漆塗り部分の掃除】
漆塗りは水分に弱いので水拭きは控えます。布も柔らかいシリコンクロスやガーゼなどで拭くようにすれば、表面に傷がつくのも抑えられます。花瓶やコップの水がこぼれてしまった時はすぐに拭くようにします。そのまま放っておくと漆が傷んではげてしまう場合があります。

仏壇は何十年、物によっては百年以上使える物もありますので、長く使っていれば掃除をしていたとしても、どうしても汚れや痛みが目立ってきます。そんな時は仏壇店に相談してみましょう。専門の方に掃除してもらうだけでも見違える程きれいになりますし、漆や金箔の塗り直しまですれば新品同様になるはずです。

◆ご葬儀について

◆お墓について

Q.お墓のルーツとは
A. 仏教におけるお墓の起源は、お釈迦様が亡くなった時に当時のインド王が、火葬されたお釈迦様のお骨(仏舎利)を国にお持ちして塔を建てておまつりし、生前のお釈迦様同様に敬い、礼拝したのがはじまりとされています。

お墓を死者を埋葬する場所として考えると、今から約20万年前に出現したネアンデルタール人も死者を埋葬する習慣があったのではないかと言われています。ネアンデルタール人の化石とともに数種類の花の花粉が発見されたことから、ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を添える習慣があったという説があります。

日本では縄文時代から死者を埋葬する習慣があり、弥生時代には木や石の棺も使われていました。古墳時代になるとお墓は権力の象徴となり、仁徳天皇陵に代表されるような巨大な古墳が作られていくようになります。
平安時代になると貴族の間に「火葬」制度が広まっていきます。石材の加工技術も発達し、現代のお墓に近い形態になりました。

お墓が一般の人々に急速に広まったのは江戸時代に入ってからです。人々はいずれかのお寺の檀家に登録するようになり、檀家制度が始まります。檀家制度により、庶民の仏教に対する信仰が確立したとも言えるでしょう。「死」をお寺が葬儀という形で担うようになったのも、これと密接な関係があるとも言われています。

明治になると、国家神道の確立とともに祖先祭祀が道徳的基礎として位置付けられます。明治民法では「家制度」を定着させる為、墳墓(墓地)は祭祀財産として家督相続の特権とされました。これにより、それまでは一人に一つのお墓が基本でしたが、一つのお墓に何人も(親類)が入る「家族の墓」が一般となりました。

現在では多くの宗教、宗派があり、葬儀の多様化、また核家族化が進むなどの社会的背景も関係し、「家族の墓」とも違った多種多様のお墓、埋葬方法が現れています。
Q.お墓を建てる時期は?
A. いつお墓を建てなければならない、という決まりはありません。東北地方など雪の多い場所では、冬場に建てることはほとんどありませんが、お墓を建てる時期は人によって様々です。

例えば、ご親戚の方々に何度も足を運んでもらうのも大変ですので、仏事を営む日(命日等)に合わせてお墓を建てる方もいらっしゃいます。

また、お盆やお彼岸、家にご不幸が出た時など、仏事に目を向けることがある機会に建てられる方も多いです。

最近ですと、生前に建てるお墓(寿陵)も増えてきました。自分の好きなデザインのお墓に入りたい、お墓のことで子供に苦労させたくない、などの理由によるものです。
Q.お墓を買うとは・・・永代使用権について
A. お墓を買う」にはまず何をすればいいのでしょうか?

 新しくお墓を建てる場合、大きく分けて必要なものが二つあります。

一つは墓石です。お墓と聞くとほとんどの人が墓石をイメージするのではないでしょうか。石塔、燈篭、墓誌板、塔婆立て、外柵などを含めた石自体のことです。

お墓を建てる際に必要なものがもう一つあります。それは墓地です。寺院等の境内墓地や地方自治体が経営する公営墓地などにお墓を建てるわけですが、正確には墓地を買うことはできません。墓地を入手したと言うことは「墓地の永代使用権を取得した」と言い、その墓地を永代にわたって借りているということを意味しているのです。
墓地の所有権はあくまでも墓地を管理、運営する寺院や地方自治体、法人にあります。

永代使用権を取得した、と言っても永久にその土地を使えるというわけではありません。墓地には使用規則があり、その契約を守らない場合は使用権を取り消される場合もあります。
永代使用権を取得すると、墓地の管理料を継続的に支払わなければなりません。管理料が支払われない場合にも使用権が失われます。お墓を継承する人がいなくなってしまった場合などです。
お墓の持ち主(永代使用権を取得した時の契約者)が死亡した場合はその子供に永代使用権は継承されます。

お墓を移すなどで、その墓地を使わなくなった場合でも、使用権を他人に譲ったりする事は出来ません。墓地の所有権はあくまで管理側にあり、墓地が必要なくなった場合は返さなくてはなりません。墓地を返すときは、墓石を撤去して更地の状態にしてから返すのが普通です。
Q.お墓の継承とは
A. お墓の持ち主が亡くなった場合、誰がお墓を引き継ぐことになるのでしょうか。

お墓は民法上では相続財産ではなく、祭祀財産に区分されます。祭祀財産とは先祖を供養するために必要な財産のことです。一般の相続財産であれば、当然配偶者や子供などが相続するのですが、祭祀財産の場合は「祭祀主催者」が相続することになります。

誰が故人に代わって祭祀主催者になるのかというと、第一に故人が指定した者がいれば、その人が新しい祭祀主催者、つまり継承したお墓の持ち主ということになります。
第二に、継承人が指定されなかった場合は地方の習慣によって継承人が決まります。通常は長男、もしくは配偶者がお墓を引き継ぐことになります。それ以外の人が継承する場合は、親族が話し合って決めます。
指定もなく、話し合いでも決まらなかった場合は、家庭裁判所の調停、もしくは審判によって決定されます。

お墓を継承するという事は墓地の永代使用権も継承するということです。そのため墓地の管理者に墓地永代使用権者の変更を届け出る必要があります。届けがすむと継承者が管理費を支払っていくことになります。
Q.寿陵とは
A. 寿陵(じゅりょう)とは生きているうちにお墓を建てることです。寿塚(じゅずか)、寿墓(じゅぼ)、逆修墓(ぎゃくしゅうぼ)とも言います。朱色で戒名が刻まれているのが特徴です。

「生きている間にお墓を建てるなんて…」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、実は寿陵を建てることは大変におめでたい事なのです。古来中国でも長寿を授かる縁起の良いこととされており、子孫繁栄や家庭円満の果報を招くと言われています。
寿陵のことは逆修墓と呼ぶこともあります。この逆修とは仏教用語で、生前に自分のために位牌や墓石を用意して仏事を営み、冥福を祈ることを言います。逆修はとても功徳の高い前行とされています。

秦の始皇帝を始め、歴代の皇帝は寿陵を建てており、日本では聖徳太子も寿陵を建てていたことが日本書紀等に記されています。
最近では、自分の好きなデザインや予算に合わせたいという方や、残された子供へ負担がかからないように、との理由で寿陵を建てられる方が増えてきています。また、希望の墓地不足を考慮し、早めの墓地確保ということで寿陵を建てられる方もいます。
Q.生前にお墓を建てた方がお得?
A. お墓は法律上では墳墓(ふんぼ)と言い、遺体や遺骨を納める建造物とされています。墳墓は相続財産ではなく、祭祀財産として扱われます。

あまり聞きなれない言葉ですが、祭祀財産とは先祖を供養するために必要な財産のことです。お墓の他には仏壇、位牌、祭壇、神棚、神具、家計図なども祭祀財産にあたります。 これらは相続財産とは全く別のものとして扱われ、相続の際に課税の対象にならない財産なのです。

生前にお墓を建てた方が得、というのはこの相続の際の税金の問題が絡んでくるためです。
例えば、亡くなられてからお墓を建てるためにと用意していた現金は相続税の対象となり、当然税金がかかってしまいます。ですが、生前にお墓を建て代金を支払っていれば、それは祭祀財産となり非課税財産として扱われます。

  このように相続税の節約になることから、生前にお墓を建てた方が得だと言われるようになったのです。
Q.お墓を移すには?
A. 今ある墓地から別の墓地へお墓を移すことを「改葬」と言います。
遠くに引っ越したため、今あるお墓を守っていくことが出来ない、宗派を変えたのでそちらのお寺にお墓を移したい、などの理由が挙げられます。

改葬するためには、新しい墓地の管理者に「受入証明書」を、旧墓地の管理者に「埋葬証明書」をそれぞれ発行してもらう必要があります。
この2つの証明書と一緒に、旧墓地の市区町村の役所に「改葬許可申請書」を提出します。すると市区町村長から「改葬許可証」が交付されます。改葬する際に新しい墓地の管理者に改葬許可証を提出すれば一連の手続きは終わりです。

法的な制約はこの改葬許可証のみですが、お墓を移す際には旧墓地の管理者との関係も忘れないようにします。
特に寺院墓地の場合は、お盆やお悔やみが出た時など常日頃お世話になっているわけですから、おかしな誤解が生じないよう改葬に至る経緯を誠意を持って説明しましょう。

この他、親族との話し合いも必要です。お墓を移すことに拒否感を持つ方もおりますから、後々揉めることのないようよく話し合っておきましょう。
Q.ペットは一緒のお墓に入れるの?
A. 長年一緒の時間を過ごしてきたペットは、家族の一員と言っても過言ではないでしょう。核家族化が進んだ現在では、ペットの死が初めての身近な者の死となる場合も珍しくはありません。愛情の注いだペットを一緒のお墓に入れてあげたいと考えるのは当然の気持ちであると言えます。
現実問題としてペットを家族と一緒のお墓に入れることは出来るのでしょうか。

法律上はペットの遺骨は「もの」として見なされます。故人の遺品を遺骨と一緒に埋葬したりする場合もあるので、法律上では違法にはなりません。
しかし、墓地にはそれぞれの管理規定があり、墓地の神聖さをそこなうものとして、墓地の管理者から許可を得られない場合がほとんどです。現段階では残念ながら許可を得るのは難しい、と言わざるをえません。

ペットを家族と一緒のお墓に入れるのは難しいですが、ペットのお墓が無いというわけではありません。自宅の庭に埋葬して身近なところで供養してあげるのもよいですし、動物を専門に供養してくれる霊園や墓地もありますので、そういった場所で安らかに眠らせてあげましょう。

◆仏事について

Q.お盆のいわれ
A. お盆は正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言います。インドのサンスクリッド語の「ウラバンナ」を音写したものです。

お盆は、お釈迦様の弟子である目連尊者の話に由来しています。
目連尊者はお釈迦様の弟子の中でも一番の神通力の持ち主で、ある日亡き母が餓鬼道に落ちて苦しんでいるのを知りました。目連尊者はお釈迦様にどうしたら母を救えるのか相談したところ、多くの人に施しをすれば母は助かると言われました。
そこで目連尊者は夏の修行期間が明ける7月15日に、多くの僧達に飲食物を施しました。するとその高徳により、母は極楽浄土がとげられたのです。
それ以来旧暦の7月15日は先祖に感謝を捧げ、供養をつむ日となったのです。

明治になり新暦が採用されると、それまでお盆の行事を行っていた7月15日では当時最も多かった農家の人たちの忙しい時期と重なってしまい、都合が悪くなったのです。そこで、お盆を通常よりも1月遅らせ、現在の8月15日をお盆として、先祖の供養をするようになりました。
Q.お盆の迎え方
A. 現在は8月15日を中心とし、その前後合わせて4日間をお盆とするのが一般的です。元々は7月15日をお盆と定めていたため、月遅れ盆とも言います。

◆迎え火と送り火
お盆期間の13日を迎え盆、16日を送り盆と言います。
お盆に帰ってくるご先祖様や亡くなった精霊が道に迷わないように、庭先や門口で迎え火として麻幹(おがら)を焚きます。これが「迎え火」です。自宅がお墓に近い方は、墓地で盆提灯に火を灯し、その灯りで精霊を自宅まで導くという風習もあります。
精霊は14、15日は家に留まり、16日の夜に家を去り、元の世界に帰っていきます。このときは迎え火を焚いたときと同じ場所に「送り火」を焚きます。その灯りによって精霊の帰り道を照らし、送り出すとされています。

◆精霊棚
精霊棚は、「盆棚」、「霊棚」、「魂祭り棚」ともいい、お仏壇の前に置いた小机に真菰(まこも)で編んだゴザを敷いて作った棚です。ゴザは手前の方は床に垂らしておきましょう。餓鬼道世界で苦しんで力の衰えた精霊でもよじ登ってこれるように、との配慮からです。
机の上にはご先祖様の位牌を置いてお祀りします。地方によっては位牌の前にきゅうりやナスで作った馬や牛を添えます。これは精霊が「きゅうりの馬」に乗ってこの世に帰り、「ナスの牛」に乗って世に戻って行くようにとの願いを込めたものだと言われています。
その他、果物や団子、盛物、花などをお供えします。また、洗った米にナス・きゅうりなどを賽(さい)の目に刻んだものを混ぜて、蓮の葉の上に盛り付けた「水の子」と呼ばれるものを供えたりもします。

◆盆踊り
盆踊りの由来には様々な諸説がありますが、お盆のいわれとも言われる目連尊者が、母が餓鬼道から救われたことを知って、その喜びを全身で表した様子がまるで踊っているかの様に見えたことが始まりとされています。
お盆にもどってきた精霊を慰め、餓鬼や無縁仏を送るための踊りという説もあります。
Q.お彼岸について
A. お彼岸は「彼岸会(ひがんえ)」とも言います。サンスクリット語のパーラミーターの訳で、彼岸に至るという意味です。

そもそも彼岸とは煩悩を脱した悟りの境地(浄土)のことで、それに対し煩悩や迷いに満ちたこちらの世界を「此岸(しがん)」といいます。
彼岸会とは、浄土に渡るためにそれぞれの宗派の教えを守り修行に励む期間で、善事を行い、先祖への服音感謝を表します。彼岸会とは日本独特の行事で、インドや中国にはありません。

お彼岸の期間は春は春分の日、秋は秋分の日を中日として、前後各3日間を合わせた7日間です。
お彼岸は特に決まった行事はありませんが、お墓参りをして、仏壇におはぎやぼたもち等をお供えします。
Q.新盆について
A. 故人の四十九日の忌明け後、初めて迎えるお盆を「新盆」と言います。四十九日の忌が明ける前にお盆を迎えた場合は、その翌年のお盆は新盆となります。

新盆は故人が初めて帰ってくるものとされ、通常のお盆よりも特に厚く供養する風習があります。葬家では新盆用の白い提灯を用意し、軒先に飾ります。また親戚や縁者の方からは柄の付いた提灯を贈られ、それを飾ります。
通常の盆棚とは別に、新仏の祭壇を飾ったりする場合もあります。祭壇には通常のお供えものの他に、故人が好きだったもの等をお供えするとよいでしょう。

新盆用の提灯を使うのはその年1回限りで、終わったら自宅の庭でお炊き上げしたり、川に流したり、菩提寺に持っていってご供養してもらったりします。
Q.法要について(四十九日、百か日、年忌法要、月法要)
A.
【四十九日法要 】
人の死後、四十九日の間を仏教では「中陰」といいます。これは人が死んでから次の生を受けるまでの間の状態の事で、死者は成仏出来ずにさ迷っていると言われます。
亡くなった日から数えて七日ごとに、初七日(しょなのか)、二七日(ふたなのか)、三七日(みなのか)、四七日(よなのか)、五七日(いつなのか)、六七日(むなのか)、七七日(なななのか)と言い、死者は七日ごとに裁判を受けると言われています。

七七日、つまり四十九日を中陰の期間が終わる日、「満中陰」と言い、この日を境に忌明けとなります。忌明けには僧侶に読経していただき、親族や故人が親しかった友人などを招いて手厚く法要を執り行います。最近では遠方から来る方や仕事の事を考え、忌明けの前の土日に法要を執り行うケースも増えています。
また、この日に納骨をして、納骨の法要も合わせて行ったりもします。

忌明けに合わせて白木の位牌から新しく用意した本位牌に変え、仏壇に納めます。また、後飾りの祭壇も取り払います。

忌明けを亡くなって三十五日とする地域もあります。また、四十九日が三ヶ月目に入ってしまうことを「三月越し」といって忌み、「始終苦が身に付く」といって繰り上げて行う地域もあります。

【百か日法要】
亡くなってから百日目を「卒哭忌(そっこくき)」といいます。「哭」は泣き叫ぶこと、「卒」は「終わる」という意味で、故人を失って泣き明かしていた家族の悲しみも癒えてくる頃だという意味です。忌明けから、この百か日頃までに挨拶や故人の遺品の整理などの雑事を済ませます。

【年忌法要】
年忌法要とは、年毎に故人の命日に行う供養です。
百か日が終わり、その翌年の故人の命日に行う「一周忌」を始め、翌々年に行う「三回忌」、「七回忌」、「十三回忌」、「十七回忌」、「二十三回忌」、「二十七回忌」、「三十三回忌」と続きます。場合によっては「五十回忌」、「百回忌」と以降は50年毎に法要を営みます。

  また、同じ年に二人以上の法要が重なった場合、一度にまとめて行うことがあります。これを「併修」と言います。

【月法要】
毎月、故人が亡くなった日を「月命日」と言います。例えば、8月1日に亡くなったとしたら、毎月の1日が月命日というわけです。この毎月の命日を「月忌」と言います。
月忌の場合、実際のところ法要を営むことはほとんどありません。ただ仏壇を掃除して、新しいお花や故人が好きだった食べ物などをお供えして供養を行いたいものです。
Q.喪中ハガキ
A. 喪中の期間中に新年を迎える場合は、年賀状の代わりに年賀欠礼状を出します。文面には誰(差出人との続柄)の喪に服しているのか、いつ亡くなったかを書き入れます。年賀欠礼状は11月末から12月初めまでに出しておくようにします。年賀欠礼状は毎年年賀状のやりとりをしている方に出します。
また、喪中である事を先方が知っていたとしても、欠礼状の趣旨から言えば出すのが礼儀です。

喪中の間に年賀状を頂いた場合は、末の内が過ぎてから寒中見舞いとして年賀状を頂いたお礼と、喪中につき年賀状を欠礼した旨を書き返事を出します。この時も「おめでとう」といった表現は使わずに「喪中につき年始のご挨拶を控えさせていただきます」といった文章にします。

喪中ハガキを受け取ったら年賀状を出すのは控えます。もし返事を書きたいのであれば、寒中見舞いや普通の手紙として出すとよいでしょう。また、この時初めて不幸を知ったのであれば、お付き合いの程度にもよりますが、電話や手紙でお悔やみを述べるのが丁寧です。